鹽竈神社
一森山山頂にあり、参道は表坂・裏坂・七曲坂の三か所にある。古来「陸奥国一宮」と称され、弘仁式主税帳(820年)の記録に「塩竈神を祀る料一万束」とあり、当時陸奥国の正税(律令制下で諸国が備蓄した稲穀)は63万3000束であったが、この正税より祭祀料をうけていたことから、早くより陸奥国の大社で、国家より高待遇を受けていたことがわかる。しかし延喜式神名帳には載っていない。一説には、この地方の海の神・製塩の神として祀られてきた国津神(地に現れた神々)が記紀神話の塩土老翁神(しおつちおじのかみ)として採り入れられ、さらに武神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)の二神を北方蛮夷に接する塩竈の地に祭り、ここに天津神(高天原にいる・いた神々)と国津神の習合による塩竈神社が成立し、多賀城が行政府として陸奥国の中心となってからは鹽竈神社が大和朝廷軍の精神的支柱として国家から崇敬を受けてきたというのがある。
福島県の馬場都々古別神社・八槻都々古別神社も陸奥一宮を称しており、室町時代成立の『大日本国一宮記』では都々古別神社を陸奥国一宮としている。
左経記(貴族である源経頼の日記)の1017(寛仁元)年10月2日に「陸奥塩竈」神とあり、「出羽大物忌」神とともに一代一度奉幣(天皇即位後、その即位を告げるために全国の有力な神社に勅使を遣わし、、神宝および幣帛を奉ること)に預かる大社に数えられている。11世紀には陸奥国最大の神社として国司の崇拝を受けていた。また、奥州平泉の藤原氏も尊信し、藤原氏滅亡後は鎌倉幕府の留守職の伊沢氏をはじめ、足利氏、斯波氏、吉良氏など武将豪族の尊敬を集めた。ことに伊達政宗は仙台城を築くと1607(慶長12)年に鹽竈神社を修造し、その後の歴代仙台藩主は大神主となって社人を統べ、社領、太刀、神馬を寄進し、毎年社参して祈願している。
社殿が現在の形になったのは4代目仙台藩主伊達綱村のころで、社殿の改築の他、仙台藩領に入る商人荷物、五十集(海産物)、材木の3種類の物資を積んだ船は必ず塩竈の港に入港することや、毎年250両の御恵金の下賜、様々な税の免除などを盛り込んだ振興令も定めたことにより、鹽竈神社だけでなく、塩竈の町も仙台への物資輸送の拠点として発展した。綱村の死後、塩竈では藩に願い出て東園寺に位牌を安置し、命日の前日に当たる6月19日に毎年法要を営み、忌日には墓所のある大年寺に参拝し続けた。その後も歴代仙台藩主は社領・太刀・神馬などを寄進するとともに自ら大神主として催事を司った。明治維新が起こり、仙台藩の庇護がなくなった後は、市民有志が綱村の戒名を冠した「肯山講」という組織を作り、寄付金や労働奉仕を募って港の整備や浚渫(水底の土砂等を掘り上げる工事)を行った。1874(明治7)年には国幣中社に列格している。
唐門
地名の由来
鹽竈の地は、陸奥国府である多賀城の国府津(国府の港)で製塩の中心地だった。そのため、この周辺で唯一の砂浜だったと言われる甫出の浜(現在の御釜神社周辺)を共同製塩の場所とし、そこで取った海水を煮て塩を得るための鉄釜が置かれていた場所という意味で鹽竈の名が生まれたのではないかと言われている。鹽竈神社別宮の祭神「塩土老翁神(しおつちおじのかみ)」は昔、この地に住む人々に海水を煮て塩を得る方法を伝えたといわれている。
社殿
現在の社殿は神仏に対する信仰が厚い仙台4代藩主伊達綱村が1695(元禄8)年に塩竈の町1づくりとともに神社造営の工事に着手し、1704(宝永元)年5代藩主伊達吉村のときに完成したものである。三本殿(左宮本殿・右宮本殿・別宮本殿)二拝殿(左右宮拝殿・別宮拝殿)という全国でも類例が殆どない社殿構成で、整然とした配置計画も優れていること、本殿・幣殿・回廊は正統で装飾を抑えた意匠で、拝殿の古風な細部様式や門等の華やかな様式と絶妙な諧調を創り出していることなどが江戸中期の神社建築として価値が高いと評価され、2002(平成14)年12月、国の重要文化財に指定されている。
別宮が塩土老翁神(しおつちおじのかみ)、左宮が武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮が経津主神(ふつぬしのかみ)を祀っている。
境内図
石鳥居
表坂の石鳥居は寛文の造営により建立されたもので、柱間約5メートル、高さ約6メートルの花崗岩製の明神鳥居である。左右の柱に「塩竈宮大明神奉創建石華表一基」「寛文三年(1663年)癸卯七月十日松平亀千代(仙台藩4代藩主伊達綱村の幼名)」と銘文がある。銅製の社号額は姫路藩2代藩主酒井忠以の書である。
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表坂 | 表坂鳥居 |
裏坂
距離はやや長いものの緩やかな坂道であったことから、女性や子供を含む庶民の参詣道として親しまれた。もともとは江戸時代前期に法蓮寺の僧らが神社に通うため踏み分けた小道が始まりとされている。その後ここを利用する参詣人が増えるに伴い、1832(天保3)年に近江商人で仙台城下の豪商であった日野屋中井新三郎が発起人となり、仙台商人28名と塩竈町人1人がこれに協力して坂道の石畳が整備された。さらに、1908(明治41)年、後の大正天皇の巡幸に際し、裏坂入り口付近の石畳が整備された。それに要した資金は総額7000円で、これを塩竈の70人、仙台の80人、江戸の78人、その他の16人が分担して拠出した。これは江戸時代以来の商業のつながりに基づいたものと見られる。1689年6月24日(元禄2年5月8日)には松尾芭蕉らがこの辺りに宿泊している。
裏坂の大鳥居
1908(明治41)年の裏坂入り口付近の改修の際に仙台の豪商であった呉服商人大内源太右衛門によって寄進されたものである。縦、横ともに一本の石材からなり、石巻稲井の石膏によって建てられた。
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現在の裏坂入り口 | 昭和初期の裏坂入り口 |
七曲坂
地元では塩土老翁神が通った坂道と伝えられている。地山を削っただけの路面は、古道の趣をよく残しており、途中には金花水と呼ばれる湧き水があり、かつては参拝者の喉を潤していたという。
勝画楼
江戸時代、裏坂正面奥の高台に、鹽竈神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺)であった法蓮寺があり、立ち並ぶ伽藍が威容を見せていたが、明治の廃仏毀釈により、勝画楼を除く建物はすべて取り壊されている。法蓮寺は真言宗の寺院で、本堂仏殿(護摩堂)や観音堂(千佛閣)など広壮な伽藍を有し、東参道沿いには脇院が立ち並んでいた。勝画楼は法蓮寺の方丈(客殿)であり、眺望の良い崖地にせり出す形で建てられ、藩主が神社を参拝する際の御休所として利用された。勝画楼は1876(明治9)年の明治天皇の東北巡幸の際に行在所として使われている。
法蓮寺跡
志波彦神社
創祀は不明だが、859(貞観元)年には従四位下に神階を進めており、927(延長5)年の延喜式では名神大社に列せられている。元々は宮城県仙台市宮城野区岩切の冠川畔にあったが、中世以降に衰微し、冠川明神として小祠を残すのみとなっていた。しかし、1871(明治4)年に国幣中社となり、1874(明治7)年に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀。さらに1934(昭和8)年に国費で社殿を造営することとなり、1938(昭和13)年に完成した。
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志波彦神社入口 |
越後屋喜三郎
江戸時代、西町の赤坂入り口にあった有名な御菓子所が越後屋三井家で、当時塩竈の御土産品を逝ってに製造していた。「奥塩地名集(塩竈地方の風土記・1627(寛文4)年発行)」には藻塩、浅緑昆布、南京糖、求肥糖、唐飴などの菓子が記されている。和菓子の世界では軟落雁は「塩釜」と総称されるが、これは越後屋の南京糖の流れを汲む菓子と言われており、現在でも塩釜市内の菓子店で製造販売されている。
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