馬場都々古別神社
所在地 | 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 |
主祭神 | 都々古別神(味耜高彦根命)・日本武尊 |
社格等 | 延喜式 名神大社 旧社格 国幣中社 神社本庁 別表神社 |
創建 | 100前後(景行天皇代) |
境内社 | 寅卯神社 甲山天満宮 稲荷神社 厳島神社 鹿島神社 神明宮 東照宮 日枝神社 熊野神社 |
その他 | 陸奥国一宮 従五位下 |
概要 正式名称は「都々古別神社」。この地域には都々古別神社が多く存在しており、棚倉町の馬場という地に所在しているため馬場都々古別神社と呼ばれている。歴史書に初めて登場するのは840年の日本後紀で927年の延喜式神名帳には、奥羽國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」と記載されている。同名の神社が同じ棚倉町の八槻や近隣の玉川村・石川町にも存在し、いずれも陸奥国一宮を称している。また、宮城県の鹽竈神社も陸奥一宮を称しているが、室町時代成立の『大日本国一宮記』では都々古別神社を陸奥国一宮としている。一方、鹽竈神社は後一条天皇(1008-1036)の即位を告げる一代一度の奉幣に預かっている。武将からの崇敬が厚く、長覆輪太刀(ながふくりんたち)・赤糸縅鎧残闕(あかいとおどしよろいざんけつ)の国重要文化財などが納められている。 |
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長覆輪太刀 | 長覆輪太刀 | 赤糸縅鎧残闕 |
歴史 12代景行天皇の時代に日本武尊が東国(日本書紀によると、岩手県釜石まで遠征したという)の蝦夷を征伐する際、味耜高彦根命(あじしきたかひこねのみこと)を都々古山(現・武鉾山・福島県白河市)に鉾を立てて祭ったことが始まりであると言われている。武鉾山は鏡、勾玉、鉄鉾、鉄剣、土師器(野焼きの土器)など古墳時代中期のものがが大量に出土していて、古代の祭祀場だったと見られる。竪穴式住居群も見つかっている。 807年に坂上田村麿が伊野荘(現・棚倉城址)に移し社殿を建造。その際に日本武尊を相殿に奉る。平安中期から久慈川・社川・阿武隈川流域の人々の絶大な信仰の対象であり、神領地も北郷24ヶ村にわたった。 中世には神仏習合して山岳信仰を取り入れて修験(山野で修行して法力を身につけること)化。神社は別当(神社に属しつつ、仏教儀礼を行う僧侶)である不動院の高松家が統括した。高野郡(現・東白川郡周辺)の北郷を信仰圏として掌握した。高松一族は宗教・政治・軍事面でこの地を支配下に置き、高野郡の南郷を掌握していた八槻都々古別神社の別当八槻氏と勢力を分掌した。 1371年の文書に「高野郡内馬場宮東宿」とあり、棚倉城付近にあった、当時の神社東方門前に宿場が形成されていた。 1594年に社殿が造営された際には、佐竹氏の家臣団の寄進をはじめ、郷村百姓から一人3升ずつの勧進を求めた。塙(現・東白川郡塙町)で5石、伊野(現・棚倉町)で20石、山本(現・棚倉町)で35石を寄進された。古くは社領が363石あったというが、1603年には150石であったという。 1625年、棚倉藩主の丹羽長重が幕命により棚倉城の築城をする際、都々古別神社を現在の馬場に移し、社殿も解体移築をした。1622年には別当高松家の当主であった高松良篤は棚倉藩の家老となっており、この事業を主導している。 造営・神領の寄進は、白河城主をはじめ、源頼義・源義家・足利義満・豊臣秀吉などが行い、現在の本殿は1594年に豊臣秀吉が佐竹義宣に命じて造営したものである。拝殿は1777年、随身門は1860年造営。 1873年3月7日に国幣中社に指定。これを機に神社名を「都都古和氣」から「都々古別」と名を変えている。 会津藩の家老で戊辰戦争で中心となって新政府軍と戦った西郷頼母が内務省の発令で1875年8月から3年ほど宮司を務めた。 主祭神・味耜高彦根命 味耜高彦根命は農具を神格化した名であるが、農耕神・水神・蛇神・雷神・剣神など神格としては諸説ある。名前のアジは賛美、シキ(スキ)は鋤、タカヒコネは敬称の意味があるがこちらも諸説存在する。出雲系の神とされ、大和国葛城地方の鴨氏の祭神と思われる。別名に迦毛大御神とあり、「大御神」は神への敬称としては最高のものであり、味耜高彦根命と鴨氏の、ある時期における強大さを物語っているとする説、大和王権において極めて重要な神であったことと呼応しているという説がある。 本殿 福島県最古の三間社流造であり、彫刻を用いない簡素な作りや反りのある垂木、庇(ひさし)に架けた水平に近い梁など細部や技法に中世的な要素が残っている。学術的な価値を高く評価され、2014年に国重要文化財に指定された。 |
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